母がわたしを産んでくれた日

誕生日の今日のことを、「今日は、母が私を産んでくれた日かー」と思って迎えました。
元気でいてくれる母に感謝を伝えることができて、本当にありがたく思います。
私の母は、17歳で自分の母親を亡くしているので、私が何か母が喜んでくれそうなことをするたびに「こんなに嬉しいことを、私は母親にしてあげられなかった」と涙を流す姿を何度も見ていて、そのたびに「天国のおばあちゃんにその気持ちはちゃんと伝わっていると思う」としか言えなかったし、今でもそう思っています。
「たったひとつのこと」を、ここでの体験を通して認識するために、ここにやってきたと思うのですが、その、たったひとつの宿題が終わらなくて、終わらないまま45年。
終わらないようにしているのも「自分」なのだけど、そのずっと奥に変わらずにいる「自分」が鍵だなぁと思います。
次々と見せてもらえる彩りにあふれた「幻」のむこうに、大きな愛を感じます。
涙が出るときは、真実に触っているときなのかな、と最近思って、だから、悲しくて悲しくて涙が止まらないときも、きっとそれは尊い経験をさせてもらっているのかなと、思うようになりました。
真実に触れながら、ちょっとずつ宿題に取り組んでいるのかもしれません。
目の前で苦しんでいる人の苦しみを、ぱきっと割って半分に分けっこすることはできなくても、何かさせていただけることはあるのかなと思います。
どんなことでもいいのだろうと思います。
荷物を持ったり、手紙を書いたり、料理をつくったり、絵本を読んだり、手をつないだり、運転したり、掃除をしたり、あいさつをしたり。
自分の好きなことでお役に立てるのであれば、写真を撮ったり、整体をさせてもらったり。
整体の師匠の木村仁さんが「目の前にいる人に今すぐにさせてもらえることが一つだけあるよ、なんだと思う?」と質問してくださったことがありました。
お答えは、「笑顔でいること」でした。
これを書いていて、同じ歳だった従弟が20代で亡くなった時に、葬儀で、叔母が涙を浮かべながら、でも私に向かっていつもの笑顔を見せてくれたことを思い出しました。
いつも明るい笑顔を見せてくれる叔母だったけれど、あの時の笑顔の印象が鮮烈で、あの時自分の目が涙で滲んでいたせいか、その笑顔が潤いを帯びて思い出されます。

バスルームに飾ってあるこの写真を撮ったのは、ニュージーランドで迎えたお誕生日、30歳のときでした。
私の誕生日は、ニュージーランドではワイタンギデイという祝日で、南半球なので夏真っ盛り、昼は、ボブマーリーさんの生誕を祝う屋外のイベントに出かけて、友だちがそこでピクニック誕生日会を催してくれました。
そこには、ボブマーリーさんのことが好きな人たちが集まっていて、私の誕生日会をしている様子に気が付くと、たくさんの方が「おめでとう!」と声をかけてくださいました。
この時初めて、ボブマーリーさんという方のことを知りました。
当時私はホームステイの学生で、10代の男の子5人と、当時50代のご夫婦が暮らす家に滞在させてもらっていました。
その日ご夫婦はホリデーで避暑地に出かけていて留守だったのですが、帰宅すると、長男のスティーブンがこの写真のケーキを焼いてくれていて、一緒にホームステイしていたアイボン(マレーシア人)が夜ご飯をつくってくれていて、次男のグラントとそのお友だち(みんなやんちゃ)がたくさん集まっていて、ベランダで飲み物を片手に、みんなニコニコしています。
日の長い夏、明るい夕方。
この時、それまで決して家族と食卓をともにすることのなかったグラントが、食卓に座ってちょっと照れくさそうに笑顔を見せてくれていました。
ケーキのろうそくに火が灯ると、みんなが「ハッピーバースデイ」を歌ってくれました。
ただびっくりしてわけもわからず、このケーキの写真だけは撮って、ろうそくを吹き消しました。
この時、誰かのお誕生日というのは、奇跡が起こる日なのかなとぼんやり思いました。
ご夫婦が帰ってきて、この晩の様子を話しても「信じられない」の一点張りでした。
私の滞在中、グラントが家族と一緒に食卓に座ってくれたのは、この日が最初で最後でした。
当時、グラントが心にいっぱい寂しさを抱えているのを感じながら、なかなか一歩を踏み込めずにいて、自分の意気地なさを恥じる思いでいました。
あの笑顔はそんな苦い思いとともに、思い出されます。
この一年、笑顔で過ごせたらと思います。